母の自殺未遂を、私はかなり後になってから聞きました。
湯治場から帰宅して数年、A氏の暴力がいよいよひどくなり、真剣に離婚を考え始めた母が初めて暴力と自殺の事を私に打ち明けたのです。
【この話は前回からの続きです】➡ 幕が上がる時「本当に母が死ぬ日」:chapter1
我が家に逃げてきた母が明かしたこと
A氏の暴力がずっと続いていた事、帰宅して実は自殺を図っていた事、そんな話をしながら、母は死の淵に佇んだ事にも触れました。
「ちゃんと死ねたと思ったのに、気が付いたら普通の生活に戻っていた」
その間の記憶は、実はほとんどないそうです。病院に運ばれた事も退院した時の事も、うっすらとしか覚えていなかったそうです。
なので、TVや本のような劇的な臨死体験のドラマを、ここで描く事は出来ません。でも、現象としての不思議さなんてどっちでもいいと思います。 重要なのは、死に臨んだ人が「まだ必要があってここに生きている」事の方なのですから。
母は「何もかもがきれいに見えて、スーッと力が抜けて笑いたくなった」と言っていました。
当時、元気になったその姿は清々しくさえありました。
「私は人生で二つ、大きな間違いをしているって分かって」
「どうしてそんな事分かったの?」
「突然、分かっちゃって……死にかけて、気が付いたらもうその事は分かってた」
「今までの記憶がいっぺんに戻って来てね。もう全然覚えてもいなかったような事が、こんなに今の私に影響しているんだってびっくりした」
「忘れていたけど、私にはずっと隠していた秘密があった」
「死の間際に人生を振り返る」のはどうやら本当らしい
母が語ったこれらの言葉に何かの本で読んだことを重ねてみると、人間が『死の際に自分の生きて来た人生を振り返る』というのは本当なのかも知れません。それも瞬時に、気が付いたら全部がいっぺんに分かっていたみたいな感じで。
ある一つの事柄が、見えない所であちこちに影響を及ぼし合っている。それは例えば弱者に対して加えられる、その時はそれで終わってしまったかに見えたひどい抑圧が、「誰かの心をねじ曲げ、そのまた誰かへと吐き出されるストレスとして伝播して行く」ようなイメージが浮かびます。
死の際に立った人は、そうしてこれまでの人生の在り様を一瞬にして見せられ、はっきりと知る事になるのでしょう。
生きて来た世界の中で、どんなに言葉をこねまわして他人に「自分を弁護」して見せていたとしても、ここで知るのは「神様だけが全部見ている、本当の自分の姿」だと思います。
他人だけでなく、自分の心ですら「これが正しい」という間違った思い込みによって騙す事は可能なのかも知れません。けれど、神様の目を欺く事は決して出来ないと思うのです。
不思議な事に、その話を聞いてからしばらくして「死の際に思い出した内容」を再び尋ねたら、母はその事すらもうすっかり忘れてしまっていたのです。内容どころか、思い出したという事実すら完全に忘れていました。
「え?そんな事あったっけ?」と言う母に、私は本当にびっくりしたのですが……。
それは母の死が訪れる日の 数か月前のこと。
死にかけて知った人生の課題を「再び忘れる」必要があった?
今にして、私はこう思うのです。
母は入院中、肉体をこちらに置いて、魂はしばし天の世界へと還っていたんじゃないかと。
傷付いた羽を休め、心のパワーを充電して、再びここへ意を決して戻ったんじゃないかと。
そう――戻って来た母は、元気のパワーをいっぱいにチャージしていた。
それは、これから取り組む事になる「人生の課題の総仕上げ」の時期が近い事を、どこかで知っていたからなのではないでしょうか。
課題は、答えを知っていたら本当の実力は身に付きません。
母はあちらで思い出した答えを、取り組む直前には知らないでいる必要があった…… だから、私に語った内容をすっかり忘れているという、おかしな事が起きたのではないでしょうか。
――思い出したという、この「二つの間違い」を再び忘れ、実際に母がどうやってそれを克服し課題を果たしていったのかは、また追々お話して行きましょう。
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※この記事は、2014年発売の「本当に母が死ぬ日~母は、その「時」が来るのを知っていた。」(Kindle版)よりほぼ同内容を抜粋・加筆し掲載したものになります。
