DV防止法における、接近禁止命令を求める裁判。
当時はまだ施行間もない時期で、私の住む地域ではまだ十数例しか裁判例がありませんでした。
【この話は前回からの続きです】➡ 奇跡「本当に母が死ぬ日」:chapter5
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裁判に勝つことが、イコール苦しみを消すことにはならない
身体に傷のない母にとっては、暴力が行われた事実があるのかどうか証明するのがとても難しい状態でした。まして、精神科への通院履歴がはっきりとしている母に対し、A氏は「暴力は本人の妄想から出た事実無根」であると周囲に主張していました。
これは母にとっては明らかに不利だったと思います。
裁判というのは、証拠や事実関係を並べ立てて見比べ、「どちらにより責があるか」を秤にかけるようなもので、決して当事者同士の軋轢を解決したり苦しんでいる人や物事への救いとなるようなものではないと私は思っています。
裁判に勝ったら万事OKか、と問われれば、それがどうなのかは正直よく分かりません。
また、相手がそれで全ての罪を解消出来るのか、という事も果たしてどうなのかと思います。
社会的制裁や心理的な責めは負うかも知れませんが、人は例え人によって断罪されても、自ら犯した罪が消える事は決してないのです。
もし、それを昇華出来る事があるとしたら、まさに当人によってのみでしか成し得ないものだと思います。むしろ争う事自体が、とてもエネルギーを消耗するムダな行為のような気さえしました。
それでも裁判に一筋の望みを託した私達
とは言え、母のように本当に何がしかの保護を必要としている人にとっては、形式上の強制力でもないよりはましでしょう。裁判は、絶対に勝つ必要がありました。
私は、暴力の事実があった事を証明するための陳述書を書くよう、シェルターのスタッフから要請を受けました。
これまでのメモや記憶をひっくり返しながら、「母が『自ら精神を病んだために』暴力を受けたという妄想が発生したのではなく、『暴力を受けた結果として』精神を病んで通院していたのだ」という点を強調して、時系列で出来事や母の状態をまとめたレポートを作りました。
ただ、問題はもう一つありました。例え母の状態に暴力との因果関係が認められたとしても、果たして精神的に苦痛を加えられる暴力は、暴力として接近禁止命令を下されるだけの対象になるのかどうか、という事です。
この裁判は、接近禁止命令を勝ち取る事が目的なのです。暴力の事実を認められても、それだけでは何の意味もないのです。
とにかく、天に祈るような気持ちで私は陳述書を書き上げ、シェルターに送りました。
まるで奇跡を後押しするかのように、必然の偶然が!
ところが、公文書であるにも拘らずうっかり印鑑を押し忘れてしまったため、何と陳述書はまた私の元に送り返されてしまったのです。
慌てて捺印し、再びポストに投函しようとしていた、その時です。
「あれ、佐倉さんですよね?」
ふと、ある方に呼び止められました。
見ると、そこには母が以前、病院でお世話になっていた心理士の先生が立っていました。
その先生は、別の場所へ転勤になり、もう移動して行ってしまったはずの方です。
「ちょっとこっちに用事があって。偶然ですね。お母さん、どうですか?調子」
「あ……実はもう外に出られないような状態で、だんなさんが精神病かと疑ってるんですよ」
シェルターの事は入所者やスタッフの安全のためにあまり公言出来ないせいもあり、私は母の状態をサラリと報告したつもりでした。
すると、先生がこんな一言を言ったのです。
「あれは、環境から来る抑うつ状態で、精神病なんかじゃないよ」
先生と会釈で別れた後、私は動悸が激しくなるのを抑えられませんでした。
ああ神様!……ありがとうございます!!
これが天の計らいでなくて、一体何だというのでしょうか?
済んでの所で、私はまだ陳述書を投函せず手元に持っていました。すぐさま家に帰り、陳述書にこう書き加えたのです。
「〇〇(公的機関)の職員から、“環境要因によって引き起こされた抑うつ状態であり、疾患によるものではない”との証言を得ている」
そうして、母は“暴力によって抑うつ状態に陥った、暴力の事実はあった”という訴えと、肉体的に加えられるものではなくとも心身に著しいダメージを被っている事などが認められ、見事接近禁止命令を勝ち取る事が出来たのです。
課題を本気で成し遂げようとする時、天の配剤はもたらされる
その時そこで、その先生に出くわしたというジャストタイミング。本来ならいないはずの人が、たまたま用事があってそこに現れたのです。
そして、先生は裁判の決め手となる重要な情報を私に与えてくれました。それも、お互いに全く意図しない偶然に、です。
母はその後、そんなに時間が経たないうちに人生の幕を閉じる事になります。
この偶然は決して偶然なんかではなく、先生もまた、母の人生上に「助け手」として登場する一人として計画されていたのかも知れないと思うのです。
私達がこの地球上に持って生まれた課題――それを真剣に成し遂げようとする時、こうした天からの手助けはもたらされるのかも知れません。
いつも見守ってくれる存在がある事を、決して独り苦しみもがいてばかりいる訳ではない事を、私は心から信じたいのです。
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※この記事は、2014年発売の「本当に母が死ぬ日~母は、その「時」が来るのを知っていた。」(Kindle版)よりほぼ同内容を抜粋・加筆し掲載したものになります。